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2009年03月 アーカイブ

2009年03月06日

アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう 1775年 - 1783年)はイギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。米国では The American Revolution(アメリカ独立革命)若しくはthe Revolutionary War(革命戦争)と呼ばれ、主に英国ではAmerican War of Independence(アメリカ独立戦争)と呼ばれている[1]。この戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、政治と立法を主に担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家の形を取った。

戦争の全期間を通して、イギリスはその海軍の優越性によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものになった。アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやオランダもその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年、フランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことが引き金になり、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終わった。1783年のパリ条約で戦争が終結となり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた
そもそも、アメリカの植民地人に独立を志向させたイギリス本国による課税の原因は、フレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)による財政危機だった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。

1767年にイギリス本国議会がタウンゼンド諸法によって新たな植民地課税に乗り出すと、またも反対運動が盛り上がり、1770年、タウンゼンド関税も撤廃となった。だが、このとき茶に対する税が残されたため、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。

1773年の茶法によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。

1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地との和解をはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。

一方、1774年に13植民地はイギリスの政策に対する方策を協議するため大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままとなった。
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1778年までの戦闘員
軍隊、民兵、および傭兵
戦争が始まったとき、アメリカには職業的な軍隊も海軍も無かった。各植民地には地元の民兵隊があり、これを使って自らの防衛に充てていた。独立戦争の前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。この民兵隊の一部を除いてほとんどが開戦時にアメリカ軍に加わった。民兵は装備が簡単なものであり、訓練は少しばかり、通常は制服も無かった。民兵は一回の従軍では数週間から数ヶ月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが、数では勝り、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、イギリス軍正規兵がいない地域で王党派軍を抑えるために、アメリカ軍が特に有効にゲリラ戦を使った

2009年03月21日

寝台電車特急列車と「なは」の登場

1967年(昭和42年)10月1日 新大阪駅 - 博多駅間を運行していた寝台急行列車「海星」を昇格する形で、世界初となる電車寝台特急列車「月光」(げっこう)の運行を開始。
使用された581系電車は、使用列車から「月光型電車」と呼ばれるようになった。
1968年(昭和43年)10月1日 ヨンサントオと呼ばれた大規模ダイヤ改正により、以下の列車の運行開始。
新大阪駅 - 熊本駅間運行の夜行急行列車「ひのくに」を電車特急化。寝台電車で運行され、「銀河」と同じ東京駅 - 大阪駅間を運行する寝台急行列車であった「明星」(みょうじょう)の名称を与えられる。
「月光」に臨時列車を1往復増発。
「あかつき」1往復増発。運行区間は新大阪駅 - 西鹿児島駅・佐世保駅間。
従来「かもめ」として新大阪駅 - 西鹿児島駅間を運行されていた昼行気動車特急列車を独立させて運転開始。列車名として沖縄の新聞である琉球新報が公募した愛称案から選ばれた「なは」の名称を与えられる。なお、経緯は下記も参照されたい。
なお、「なは」運行開始時は日豊本線宮崎駅発着列車である「日向」(ひゅうが)を小倉駅まで併結していた。
名古屋駅 - 博多駅間運行の寝台特急列車「金星」(きんせい)の運行開始。
1970年(昭和45年)3月15日 「月光」、「明星」、「金星」の食堂車営業休止。
1970年10月1日 「明星」2往復に増発。また、京都駅 - 西鹿児島駅間を東海道本線・山陽本線・鹿児島本線経由で運行する電車寝台特急列車として「きりしま」運行開始。
「きりしま」は従来、同名の列車である「霧島」が東京駅 - 西鹿児島駅間の急行列車で運行されていたが、これの名称を「桜島」にしてひらがな表記とした。また新設された当時では電車寝台特急列車では最長距離運転列車であり、食堂車の営業も関西 - 九州間の電車寝台特急の中では唯一営業していた。
1972年(昭和47年)3月15日 山陽新幹線岡山駅乗り入れに伴うダイヤ改正により以下の通りとする。
「なは」 - 電車化されることなく、「日向」との併結運転を継続。
「明星」 - 従来「月光」として運行されていた博多駅発着列車を吸収する。また、1往復を京都駅発着とする。
「月光」 - 運行区間を岡山駅 - 西鹿児島駅間とし、岡山駅 - 博多駅間の臨時列車も設ける。
「あかつき」に新大阪駅 - 熊本駅・長崎駅間列車を設定。
「しろやま」 - 列車名を「屋久島」(やくしま)に変更。
1972年10月2日 「あかつき」に新大阪駅 - 熊本駅間列車を設定。「あかつき」に14系客車投入。
1973年(昭和48年)10月1日 ダイヤ改正に伴い、以下のように変更する。
岡山駅 - 博多駅間の臨時「月光」を定期列車化。「月光」2往復となる。
「なは」を485系電車により電車列車化。同区間を運行する昼行特急列車として単独で運転。
なお、併結相手の「日向」は気動車特急のまま残り、日豊本線電化が南宮崎駅まで延伸された翌1974年4月に電車化。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

「きりしま」が上りのみ西鹿児島 → 新大阪駅間の変則運転となる。また、運転ダイヤの関係で「きりしま」の食堂車営業休止。

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