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2009年04月 アーカイブ

2009年04月05日

琴ヶ濱貞雄

琴ヶ濵貞雄(ことがはま さだお、1927年10月10日 - 1981年6月7日)は、宮崎県生まれ、香川県三豊郡(現観音寺市)出身の大相撲力士である。後に大関へ昇進した。本名・宇草貞雄。現役時代の体格は177cm、117kg。得意手は左四つ、内掛け、上手投げ。

大相撲入り [編集]
宮崎県で馬の仲買人の長男として生まれ、後に香川へ移った。幼い頃から大柄な体格で17歳の時には身長169cmに達した。

高等小学校を卒業すると父親が早世した影響で1944年9月に海軍に志願、その体格から上官に見出され海軍相撲に参加することになった。敗戦により軍が解散すると故郷に帰ったが食うに困らないとの理由で力士になろうと思い、初代琴錦を紹介してもらい、二所ノ関部屋に入門した。1945年11月場所、二所ノ関部屋から本名の宇草で初土俵を踏む。

琴ヶ濵の四股名は、師匠の琴錦と海岸にある観音寺にちなんで、行司の7代目式守錦太夫が命名した。

素質には恵まれなかったが大変な稽古熱心で地力をつけ、翌年入門した若ノ花との稽古の激しさは今でも当時を知る人の間で語り継がれている。いつまでも軽いままだったのも稽古し過ぎるせいだと評された。後によき稽古相手であると同時に親友でもある若乃花が横綱に昇進すると太刀持ちを勤めた。鍛え上げた赤銅色の体躯と精悍な面構えで「南海の黒豹」とあだ名された。

1946年に左足を負傷、これが琴ヶ濵の運命を決めた。左足を庇い浮かせぎみにして相撲をとるようになったが、これを有効に利用する方法を考え内掛けを使うようになった。兄弟子である玉櫻の指導により廻しを切る稽古も行なって威力を増したが、あまりの熱心さに負傷して便所に行けなくなることさえあった。腰を使って廻しを切り、相手が再度取ろうと手を伸ばしたところで左足を飛ばし鎌で刈り払うがことく決める内掛けの威力から内掛けといったら琴ヶ濵、琴ヶ濵といったら内掛けといわれるようになった。

関取昇進以後 [編集]
1949年10月場所新十両、1950年5月場所新入幕。1955年に師匠の琴錦が二所ノ関部屋から独立して佐渡ヶ嶽部屋を創設したのに伴い、二所ノ関部屋から佐渡ヶ嶽部屋へ移籍した。

部屋移籍と時を同じくして幕内の上位で活躍するようになり「儂は内掛けなどくらわん」と豪語した横綱栃錦に内掛けを決めた際に栃錦は内掛け封印を宣言、二度と使わなかった。また北ノ洋が「内掛けが来たら外掛けでひっくり返してやる」と作戦を立てた際にも内掛けで倒すなど猛威を振るった。小結だった1957年1月場所は休場して3月は前頭8枚目まで落ちたがそれ以降好調が続き、1958年3月場所に13勝を挙げ大関朝潮との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した。

横綱昇進を期待されたが大関昇進後は病や負傷に苦しみ果たせなかった。公式に記録されているものだけでも数多くあるが、特に右足親指を負傷してからは不振続きで、当時の「大関は3場所連続の負越で陥落する」という特権的な制度を活用しているとまで言われる程の不振ぶりだった。軸足となる右足に力が入らなくては琴ヶ濵最大の武器である左内掛けは威力を発揮できなくなった。

最初の角番で迎えた1961年1月場所千秋楽、大関柏戸と12勝2敗同士で勝った方が優勝の相星決戦(敗退)をしたのが最後の光だった。2場所連続負け越しでの角番がこのときと合わせて3度、名大関とも呼ばれる反面この晩年の不調が評価を下げたとも言われる。

1962年11月場所の全休を最後に引退、年寄尾車を襲名。

稽古熱心ぶりは弟弟子から恐れられたが厳しい稽古の中での指導は決して間違ってはおらず、後の横綱琴櫻なども琴ヶ濵に鍛えられた。引退後は琴櫻のよき相談相手でもあり佐渡ヶ嶽(琴錦)が亡くなって部屋を琴櫻が継承してからも補佐し続けたが、1981年6月7日、53歳の若さで亡くなった。

妻は磐石の娘。息子は琴宇草、のち父と同じ琴ヶ濵を名乗って幕下まで進んだ。

同郷の中西太とは仲がよく、よく飲み歩いたという。また、厳しい反面、ユーモアに溢れていた。

成績 [編集]
幕内在位:59場所(大関のほか関脇5場所、小結4場所)
幕内成績:441勝352敗92休 勝率.556
大関在位: 28場所
大関通算成績:185勝152敗83休 勝率.549
優勝同点:1回
三賞:殊勲賞2回、技能賞5回、敢闘賞1回
金星:7個(鏡里、千代の山2、栃錦3、吉葉山)

ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

2009年04月21日

ビザンティン建築

ビザンティン建築 (Byzantine Architecture) は、東ローマ帝国の勢力下で興った建築。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。

ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。

東ローマ帝国の勢力圏のみならずキリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやユーゴスラヴィア、ロシアといった東欧諸国あるいはアルメニアやグルジアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。

ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」の呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。

4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であると言える[1]。

しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換にともなってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあると言える[2]のに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため、この暗黒時代をビザンティン建築のひとつの分岐点とする指摘もある。

中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ


9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが[5]、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷とのつながりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。

東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述がほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか作らなかった訳ではない、ということは考慮する必要がある。


2009年04月23日

突厥

突厥(とっけつ、とっくつ)は、6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族と、それが中枢権力を構成して起こした中央ユーラシアに覇権をうちたてた遊牧国家名。アルタイ山脈の麓に住んでいた。

突厥は「テュルク」(トルコ)を漢字表記したものと考えられ、その中枢権力を構成した集団はまさにテュルク系であると考えられている。また、その可汗の一族の属した氏族は阿史那氏と呼ばれる。当初は柔然に従属して、アルタイ山脈の西南で鉄の鋳造や金の採取の業をもって仕えていた。6世紀中頃に強勢となり、同じテュルク系の鉄勒(これも「テュルク」の漢字表記)を服属させ、その力で柔然の支配を打ち破り独立した。

その後は、モンゴル高原に領土を広げ、サーサーン朝と結んでエフタルを滅ぼした。

東は中国の北方まで、西はカスピ海にまでのびる大勢力となった突厥であったが、遊牧民諸集団の連合体という遊牧国家の宿命ゆえ、国内では各遊牧集団を指導する、小可汗やベク、シャドの称号を持つ有力者が乱立しており、隋の離間策や強大になった国家運営を行える内治制度の不備などの理由から内部での対立が激しくなって東西に分裂した。

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その後、東突厥の啓民可汗(突利可汗)は、隋より安義公主を降嫁され、隋の後ろ盾で突厥の大可汗となったがこの時期に鉄勒の独立運動が激しくなり、突厥全土には影響力がおよばなかった。

隋の支配が乱れると、啓民可汗の子の始畢可汗は勇躍し、隋に侵入して朝貢を停止した。また鉄勒を再び強い支配下におさめ、隋を滅ぼした唐を圧迫した。627年には唐に侵攻し、当時の唐は玄武門の変の直後にもあたり、国境警備の兵は殺された李建成の指揮下にあったため動揺しており、突厥は簡単に長安のすぐ近く渭水まで迫った。この時、『旧唐書』によれば当時の唐皇帝の太宗に協約違反を責められてすぐに帰ったと記されているが、これは非常に疑わしい。実際は突厥に有利な和約を結んで帰ったというところだろうと思われる。

しかし、その2年後には唐軍と独立した鉄勒との挟撃を受けて始畢可汗の弟頡利可汗、始畢可汗の息子突利可汗は唐に降伏し東突厥は滅び、唐の羈縻支配に置かれることとなる。その後も何度か唐に反抗し、682年には独立を果たして第二突厥帝国と呼ばれる国を建てる。しかし、またも内紛が激しくなって745年にウイグルを主力とする連合軍に攻められて完全に滅びた。

西突厥はその後も内部紛争を繰り返し、唐の討伐を受けて衰退していった。

文化面で言えば、突厥は、東アジアにおいて、漢民族以外で、日本のかな文字と同様に、比較的早くに独自の文字(突厥文字)を持った民族として知られる。そのことは、1889年以後に、モンゴル高原で発見された突厥碑文によって世に知られることとなった。なかでも有名なのは、第二突厥帝国期の闕特勤碑文(オルホン碑文)である。

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